2011年12月30日金曜日

木曽路にて NK-Japan

今日もお絵かきの練習
5個目のリンゴ
   年賀状の版画作りに夢中になっているうちに、「手描室」の宿題になっている”レモンのデッサン”がおろそかになっていた。3週間もストーブの部屋で待っていた、モデルの”レモンちゃん”は、すっかりしぼんでお婆ちゃんになっている。次のピチピチモデルが来るまで、冷蔵中のリンゴ姉さんに、代役モデルになってもらって練習。リンゴの実物は、美味しそうだが、思ったより赤黒い。そのままの色で描くと、ぜんぜん美味しそうに見えない。難しい(~_~;)
   昨日、NK-Japan夫妻が、年末年始越冬隊として、この飯田の山中にやって来た。いきなり「おい、お前のブログ、飯田中に広まってるぞぉ。」と夫婦でゲラゲラ笑っている。  先月23日のお茶会で、彼のお抱え運転手をした時のこと、上品な着物姿のご夫人がタクシーで帰るところだった。聞くところによると、ご夫婦でお茶のお弟子さんになっているとか。 そのご夫妻の家に遊びに行ったら、炬燵の上に「野越え山越え~NK-Japanはどこへ行く~」のコピーが置いてあって、「これ、あんたのことでしょ」と言われたそうな。 なんと、この上品なご夫人、手描室の先生の実の姉上であらせられたm(__)m  ピアノと手描室と、ついにはNK-Japan氏の茶道まで、くっついてしまった。ほんとに縁とは不思議なものだ。
   このNK-Japan夫妻、今朝こちらはまだ朝飯前だと言うのに、「いま二人で木曽路を塩尻まで歩いている。」とメールが来た。 あの学生時代のグーたらな姿を思い出すと、いい嫁を貰うと、人はこうも変わるものかと思う。

2011年12月29日木曜日

絶品! 村上の鮭 寒風干し

昨日届いた
村上の塩引鮭
昨年12月、鶴岡での葬儀のため、車で往復したことがあった。その道中、山形県と新潟県の県境に村上市がある。ここは昔ながらの”鮭の寒風干し”で有名だ。スーパーで売られている塩鮭は、塩漬け冷凍して、熟成していないものが殆どだ。 この「寒風干し塩引き鮭」は鮭の身に塩分をしみ込ませ、1~2週間軒に吊るし(たぶん今はもっと衛生的なところで吊るしていると思うが)、11月から12月にかけての、この地方独特の気温と湿度と寒風で鮭を熟成させたものである。この鮭がたまらなく美味いということを、あるグルメ番組で放映していた。
故人には申し訳ないが、葬式はそこそこに、この塩鮭を食べるために村上まで猛スピードで直行し、塩引鮭直営店が併設するレストランで塩鮭定食を食べた。まさに絶品であった。すぐ一本8000円もする鮭を買って帰った。 この村上までは雨仰庵から片道400kmもある。さすがのグルメ仙人も、今年はこの店の通販で買うことにし、そして待望の鮭が昨日届いた。 4kgのものを頼んだのに、計ってみたら3kgしかない。早速クレームの電話を入れたら、「4kgと言うのは、鮭の生前の体重です。」と答えが返ってきた。Webページを再度確認したら、なるほど、小さな字で「重さは捕獲時のものです」書いてあった。 なんと、この鮭は1~2週間で、1kgの減量に成功していた。  店の人に美味しい保存方法を聞いたら、「真空パックにして冷凍」と言うことだったので、鮭のために真空パック器まで買ってしまった。 家内には「アホちゃう」と笑われている!(^^)!
この7月、NK-Japan石巻のYAさんを訪ねたときも、わざわざ遠回りして、この塩鮭定食を食べるために村上に立ち寄った。 NK-Japan 氏曰く(三河弁で)「どえりゃぁたきゃぁ塩鮭定食だどでよぉ、けどよぉ、たしかにうみゃぁわ!」 (標準語に翻訳 : 「ものすごく高い塩鮭定食ですが、確かに美味しいです」)
塩鮭定食 1,500円也。

2011年12月28日水曜日

伊那谷は氷の国(2) ツララもきれい

天気が良いとツララができる
最大1.5mぐらいになる
私は静岡生まれ。学生時代に金沢の友達のところにお邪魔した時、遠回りして大町でスキーを初体験した。それまで、目の前で雪を見たことがなかった。静岡で雪と言えば、富士山から風に乗って流れてきて青空に舞う”風花(かざはな)”で、それだけで子供達は大喜びをしていた。 就職して滋賀県で暮らすようになり、最初のうち綺麗だ綺麗だと大喜びしていたが、実際には車はすべるし、歩いていてもすべるし、生活するには大変なことだと知った。それに、道端によけた雪と言うものは純白のイメージと、かけ離れたダーティーな存在だ。
  滋賀県の家は、雪止めというのが瓦についていて、しかも雨樋があったので、軒にはツララが出来ない。 飯田雨仰庵は、冬枯れの木の葉が積もるし、雪が滑り落ちるように、雨樋もなければ雪止めもない。一年目は、玄関前に雪が屋根から滑り落ちて1.5mぐらいになり、閉じ込められたことがある。
  雨樋がない代わりに、雪降りの後、このような大きなツララが出来る。私は生まれて始めて、ここでツララを見た。ただ、数日すると屋根の雪が雪崩となって滑り落ち、この見事なツララとともに地響きを発てて落ちてくる。軒下にいたら、ひとたまりもない。
  だから、雪が降ったら、純白と木の枝が作り出すなんともいえない模様と、光を受けて輝くツララの自然美を、家の中で、ぬくぬくと楽しむことにしている。贅沢この上ない。

2011年12月27日火曜日

伊那谷は氷の国 毎年何かが起こる

スローライフを目指して
いたとは思えない
最新式トイレ

今朝、起きがけにいつものようにトイレに行った。着替えをしながら毎日の行事としてストーブの前で越冬から目覚めるクマのようにボーっとしていた。又しばらくして朝食の準備をしようと、その前にまたトイレに立った。すると先ほどのが、流してない(-_-;)  一瞬、ついに来たかと思った。そういう人たちの話を家内から聞いていたからだ。しかし、再度流そうとしても”カチッ、カチッ”と音がするだけで流せない。台所に行って蛇口をひねると、やはり水も温水もでない。朝食どころではなくなってしまった。
長野県を、ひっくるめて雪国と呼ぶ人が多い。しかし北部豪雪地帯と比べ、この南部伊那谷は雪国と言うより氷の国だ。積雪はたいしたことがないが、とにかく冷える。 水道が凍るハプニングはこの5回目の冬で、(性懲りもなく)5回目だ。最初は、新築当時(20年前)の凍結防止設備の劣化から1回目の越冬で3回、次々と起きた。最悪は、1週間留守にした時に風呂のサーモ付混合栓が破裂して修理に7万円も取られた。ちゃんと手順どおり水を抜いてたのにだ(どう考えてもサーモコントロール部に水が入るなんて不良品だ・・・いまだにTOTOから回答がない)。次に困ったのは昨年の12月末だ。風呂に入るつもりで水を抜いて掃除をしておいた。年賀状彫りに半徹をして、結局3日間風呂に入れなかったが、その後、温水器の配管が爆発した。(冬期夜間は、風呂の水を抜かないでくださいと説明は受けていた。) 今回は、この夏工事した合併浄化槽の業者が、凍結防止のコンセントを抜いて放置したのが原因だった。 水道管にヒーターを巻くのだが、この電気代が馬鹿にならない。夏の電気代5~6千円に対して、冬2万円を越える。電気暖房はないので、凍結防止に約1.5万円掛かることになる。井戸水ならこんな必要がないが、文明と言うものはエネルギーと金を無茶しているなと思う。
近くのカインズホームで、この凍結防止ヒーターの節電グッズが売っている。通常外気温が4度になるとスイッチが入るらしいが、この節電装置を間にかますと2度でスイッチが入るらしい。が、近所の爺さんこれを付けたら、次々と水道管が爆発した。節電が利きすぎたのだ。

2011年12月26日月曜日

予定は一週間に一つ

11月の第2週
毎日予定が入りパニック
昨日話した、家内がボランティアで村の老人会のお世話をさせてもらった時のこと、多くのお年寄りが忙しいと言う。「おばあさん、何いってんねん?」と彼女は笑っていた。例えば半年も先のおじいさん(ご主人)の法事のことが気になって忙しいなど。
会社では、第三者(普通は上司)が、忙しいかどうか判断して仕事を割り振ったり、給料がそれで決まったりする。しかし本来、忙しいと言うのは主観的問題だ。 リタイア後、一日一件の予定が入るだけで何か気ぜわしいことに気づいた。そのうち一週間に一つ予定が入るだけでも、忙しいと感じるようになってしまった。どうも、そう思う心のキャパシティがだんだん小さくなっていくようだ。 とにかく予定が入ると、それが気になって気になって、まるで喉に魚の骨が引っかかっているような感じになる。この11月の第2週は何故か毎日予定が入り、パニックになった。 予定は一週間に一つ。だから、ピアノのレッスンがあるときは他の予定を入れない。 普通の人(特に私には時間がたっぷりあり、暇をもてあましていると思っている人たち)は何週間、場合によっては何ヶ月も前から着々と計画を立ててくる。 そんな先の約束をしても、ず~っと気になって気がおかしくなるに決まっている。だから、遠い先の約束をしないことにした。私がこんな風だから、あんまり人は訪ねてこないが、来てもらう場合は、「明日行くけど都合は?」程度にしてもらっている。都合が悪ければ??「ごめん、じゃぁまたね」・・・お断りするのも、この方が楽だ(^^ゞ

2011年12月25日日曜日

歳をとる事と老人になること

寝室からの景色
歳をとると毎日の昼寝が欠かせない
今日の昼寝タイムの窓の外、この冬一番の雪
私はこのブログでも「歳をとった」とか「爺さんになった」と、よくぼやいているが、「老人になった」と思ったことは一度もない。時間の流れとそれに伴う身体の変化、考え方の変化は受け入れられても、「老人」という型枠に、特に行政が決めた枠の中に入れられるのが嫌なんだと思う。
以前住んでいた「村の掟」に詳しい家内によると、「数えで65歳になったら、村の老人会に入ることになっている。」とか。今年その歳を迎えてしまった。本来ならば、村の老人会の若手として、先輩達のお世話をしなければならない。つまり、老人会のパシリだ。ある意味、そういう付き合いが苦手で飯田まで飛んできたが、逆に、世間のお役に立てず、誠に身勝手で申し訳ないと思う。
ボランティアで、その老人会のお世話をしたことがある家内から、「一日バス旅行する時、昼寝タイムをとる、広い畳の部屋を確保するのが大変だ。」と聞いたことがある。私も最近昼寝が欠かせなくなった。昼寝をしないと体の調子が悪いので、だんだん遠出が億劫になる。今日もぼ~んやりとしながら、ベッド脇の窓から雪景色を眺めていた。
こんな気ままな爺さん、行政の決めた老人枠に入るのが嫌だと言いながら、「老人福祉・・・補助」などと市役所からアナウンスがあれば、真っ先に手を挙げて跳んで行く・・・穴があったら入りたい(^^ゞ

2011年12月24日土曜日

年賀状10枚 事業仕分

最後の第4版の刷りを残すのみ(昨夜)
私はもともと切羽詰らないと何事もできない。以前はそうなってからでも、一気に片付けることができたが、この前書いたように根気が続かなくなってから、そうはいかなくなった。年賀状を面倒な手作り版画にしたのは良いが、毎年ぐずぐずと大晦日まで掛かってしまう。昨年は紅白が終わってから郵便局に出しに行った。
今年はウルトラマンタイマーを使って、根気を小出しにしたお陰で今日24日に年賀状を出すことができた。なんと4年ぶりの快挙だ。
この年賀状だが、パソコンプリントをやめて版画にしてから、新たな悩みが出てきた。当然ながら、一枚一枚出来が違うのである。今年の版画は4色刷りにした。 仮に、一枚の版当り、上手く刷れるのが80%と仮定すると、0.8の4乗=0.4 つまり、10枚の年賀状のうちまともなのは4枚しかない計算になる。これが一色当り70%とすると良いのは2枚しか残らない。ハガキなので捨てるわけにも行かず、良い順に並べて、どれを誰に送るか非公開事業仕分けをすることになるのである。ほんとは一番親しい人、親密な人に一番の作品を送るべきだが、私は見栄っ張りなので、絵にうるさい人順に良いものから送ることになってしまう。
ある日、一番お世話になっていて親しいNK-Japan氏に、このカラクリがばれてしまった。彼に行くのは下から数えたほうが早いことが知れると、「なんでぇ、おれのが一番いいのじゃぁないのか?」・・・
貰うほうも、皆、自分のところへ来るのが、一番と思っているらしい。

2011年12月22日木曜日

ウルトラマン・ウギョウ 変~身15分

私のウルトラマンタイマー
 若い頃、何かに熱中すると、ほんとに熱が出てよく会社を休んだ。皆に「O君の知恵熱が出た。また、何か面白いもん買いやがったな。」とよく冷かされた。私は何か面白いことを始めると、時間も何も忘れて没頭する。だが最近それが無くなった。
歳をとると一番先に体力減退と言われるが、私の場合もとから体力減退しているので、一番感じるのは根気の減退だ。ピアノ、絵画などやりたいことと自由時間は山ほどあるのに、長時間続けることができない。テレビでさえ、1時間ドラマや2時間のスポーツ番組などを通して視ることができなくなった。我が家ではニュース以外、見たい番組は録画して何回かに分割して視ている。
そういえば昔、テレビや映画のヒーロー、ウルトラマンも集中力は抜群だったが、体力が3分しかもたなかった。
そこで最近、私は何か集中するとき、ウルトラマンのカラータイマーならぬキッチンタイマーを首にぶら下げ、(3分ではさすがに何もできないので)15分でとにかく打ち切ることにしている。15分にしたのは二つ理由がある。
一つはピアノの練習だ。指の麻痺が進んできて、ピアノを長時間弾くと、次の日以降、指が動かなくなってしまうようになった。いろいろ試したが、30分だと影響がまだ出る。一回あたり15分位にして休み々々弾くと大丈夫なことがわかった。それでも1日トータル1時間が限度だ。(1年目は音大生に負けじと、1日3時間から5時間位練習した。それが今響いている様だ。)
二つ目は、会社にいた頃、ブレーンストーミング(注:自由に意見を言って、アイデアを沢山出す会議)では、最初の15分で90%のアイデアが出尽くすと聞いた。つまりそれ以上(長い会議を)やっても無駄ということだ。それが不思議なことに、時間をおいてやると、また次々と新しいアイデアが出てくる。どうも脳が効率よく働いてくれるのが15分が限度らしい。
最後の一枚!(^^)!
年賀状の版画を作り始めて2週間経ってしまった。版下作りが面倒なことは前に「Tシャツ君・・・」で述べたが、根気が要るのは、彫りだ。彫るたびにどっと疲れ、再開するのが億劫で、ずるずると来てしまった。ふと、昨日、版画を彫る時、首にウルトラマンタイマーを着けていないことに気がついた。なんと15分ピコピコで掘り出してから、4枚のうち2枚、それも一番手のかかる複雑な2枚が2日間で出来上がった。私の年賀状は今まで元旦に届いたことがないが、今年はピコピコタイマーのお陰で、なんとか間に合いそうだ。

2011年12月21日水曜日

トントン庄太さんがくれた固まり砂糖

固まった砂糖に水を少しかける
テレビでプロの料理人が、魚や肉にパラパラっと見事に均一に、塩やコショウを撒くのをよく見る。料理でも形にこだわる仙人は、あれがしたくて、今日も焼き塩を作った。
コショウも色んなミルを買っては上手く行かないので、これはバッタモン(関西で言う、安物、粗悪品)だからと、3000円もするミルを買ったことがある。が、やはりプロがやるような音が出ず、ごそごそ音がするだけなので、今はお蔵入りだ。塩撒きも、いくら焼き塩を作ったからと言って、私がやると台所中塩だらけに散らかって、山の神に叱られる。 やはりどの道もプロと言うのはすごいと思う。

5分後、固まりは簡単に粉になった
焼き塩にして、パラパラにするということは、塩は水を吸って固まったり、べたべたすると言うことだ。「砂糖は反対に、乾燥して固まるので、水を少し加えてほぐすと良い」とネットのTipsにあった。試してみると、金槌でも割れそうもない砂糖の固まりだったが、5分ぐらいで見事粉にすることができた。 「塩辛い」と「甘い」と味が反対だけでなく、固まり方まで反対だったとは知らなかった。

私の祖父(じい)さんは、私が幼稚園の頃亡くなったので、あまり記憶にないが、一つだけ鮮明に覚えていることがある。ある日台所の甕の中から、祖父さんが砂糖の固まりを、(今思うと)盗み食いしているのを見つけてしまった。すると一つ小さな固まりを私にくれた。幼子に砂糖泥棒の片棒を担がせ、黙っていろという暗黙の了解だった。私も義理堅く、その後両親には喋っていない。
大きくなって祖父さんのことを色々聞くと、しょっちゅう家のあっちこっちを直して、金槌で叩いているので、近所では「トントン庄太さん」と渾名(あだな)を貰っていたらしい。また、根っからの甘党で、ご飯に砂糖をかけて食べていたとか。「ぼたもちには、あんこが巻いてあるのに、飯に砂糖かけて何が悪い?」と屁理屈をこねていたそうだ。 私の屁理屈も甘党も、また毎年雨仰庵のどこかを改装しているのも、トントン庄太さんのDNAを受け継いでいるようだ。

2011年12月20日火曜日

スローライフという誘惑

ペレットストーブ
今年は急に寒くなったせいか、ストーブ燃料消費が多い。年を越せるだろうと思っていたが怪しくなってきたので、燃料を買いに行ってきた。我が家のストーブは、ペレットストーブだ。木質ペレット(=間伐材などを細かく砕いて直径3mmx2cmぐらいに押し固めたもの)を燃やすので、基本的には薪ストーブと同じ、空気中の二酸化炭素を増やさない、環境に優しいストーブだ 。ここ雨仰庵の冬の気候は、零下10~15℃まで冷えるので、ヒートポンプ式のエアコンは役に立たない。どうせ夏は冷房が要らないので、近所でも、もっぱら冬の暖房に頭を悩ますことになる。
近年、リタイア後の生活を”田舎暮らし”、”LOHASな生活”、”スローライフ”など、どちらかと言うと不便な生活に憧れる傾向にある。かく言う私もその一人だったが、団塊の世代で、しかも田舎で育った人間にとって、子供時代はスローライフそのものだった。
炊事 薪割から始まり、かまどでご飯を炊く。薪や炭で煮炊きをする。
風呂 井戸からバケツに水を汲み、風呂桶一杯になるまでえっちらおっちら水運び。その後、薪で風呂を焚く。
洗濯 井戸からたらいに水を汲み、洗濯板でごしごし。
暖房 薪割りしてストーブ、または炭を起こして火鉢か炬燵にあたる。
などなど・・・
よく考えたら、こんな生活を爺さん一人、もしくは老夫婦で、できる訳が無い。昔、大家族で全員が働いて(子供の場合お手伝いと言った)、やっとできたのだ。 この界隈でスローライフの象徴は、上記4番目の薪ストーブだ。私もできればペレットストーブをやめて、薪ストーブにしたいぐらいだ。近所のIGさんは、夏中暑い中、チェーンソウとよきで木を切り冬に備えて薪作りをしている。家の周りぐるりと薪をカチカチ山の狸のように積み上げても、冬になれば2~3週間で終わりだ。 これを業者から薪を買うとなると、一日3000円ほどかかる。
従って、雨仰庵仙人としては、スローライフは諦め、(ファーストフードをやめて)スローフードで、せめてもの山暮らしを楽しんでいる。

2011年12月19日月曜日

あぁ、分杭峠(ぶんくいとうげ)・・・

パワースポット、大地の気が強い場所で、大概、温泉が噴出したり、地磁気に異常があったり、古くから霊場であったりする。
実はこの伊那谷に、日本で一番”気”が強いと言われるパワースポット”分杭峠(ぶんくいとうげ 地図はここ)”がある。中国の気功の大家が発見し有名になったと聞く。ここは、地球の磁場がぶつかり合って「ゼロ磁場」になっていると言うことだが、私には何の事だかわからない。ただ解るのは、中学の社会科で習った「中央構造線」という、諏訪湖から四国を通って九州までつながっている、日本で一番大きな割れ目の上に私が住んでいるということだ。そういうところは、地磁気に異常が見られるらしい。 NK-Japan氏と私が敬愛する、”伊那谷の老子”こと加島祥造先生も伊那谷に移り住んで、気の流れを感じると、その著書にあった。

一昨年、家内と駒ヶ根から歌舞伎で有名な大鹿村に向かった。その途中に「分杭峠」がある。日曜日ともなると駐車場も満杯になるほどの賑わいだ。遠くから簡易ベッドを持ち込んだりして、気功の治療を行う人も居る。しかし、その「ゼロ磁場」なる地点は駐車場から50mも下った谷にあり、私はとても行くことができず、家内が様子を見てきてくれた。ここも病院と同じで、元気が無けりゃ行けない(^^ゞ
近くで「ゼロ磁場の秘水」というミネラルウォーターを売っていたので、隣のヨシ爺夫婦に2本、我が家用に2本買って帰った。2、3日して、ヨシ爺が「あの水は賞味期限が1ヶ月も切れていたので、メーカーに電話して文句を言っておいた。」と言って来た。我が家はとっくに飲んじまった。また2週間ほどすると、3本の「ゼロ磁場水」を抱えてやってきた。メーカーから丁重な詫び状とともに、半ダースも届いた。その分け前だった。

この分杭峠に行かなくても、伊那谷に住んでいると元気になる。近所のT爺さんは、以前医者から余命半年と言われた。それではと金を全部使ってしまってここに移り住んだが、元気になってしまって、金が無いので困ったと言っている。また、同じ名前のT夫人は、最近こちらにやってくるようになったが、最初、殆ど自力で歩けず、両脇を抱えられて車から家に入っていた。1ヶ月もすると、結構きつい坂道を一人で散歩するほどになった。
私のことになるが、会社を辞める時も1ヶ月ぐらい寝込み、自営を廃業する時も半月ぐらい寝込み、それを知っている友人達が心配して時々来てくれる。ところが「なんだぁ、俺達以上に元気じゃぁねぇか」と口を揃えて、一様にがっかりして帰るのである。それほど、私も伊那谷に移り住んでから、元気に、のほほんと暮らしている。
これも、伊那谷の強い気のお陰か?・・・もうひとつ、うちの山ノ神も”気”が強い。この相乗効果で、私の健康が保たれている(^^♪


2011年12月18日日曜日

何度食べても”二度芋”

同じ飯田市内だが、雨仰庵から天竜川を挟んで直線距離にして30kmほどのところに、日本のチロル、日本のマチュピチュ、天空の里などと呼ばれる「下栗(しもぐり)の里」がある。これは雨仰庵に引っ越した2007年4月に訪れた時、南アルプスで最南端の3000m峰、聖岳を写したものだ。標高1000m以上、細くて曲がりくねった急峻な路を上りきったところに集落がある。前に手がつきそうなくらいの急斜面を切開いた小さな畑で、色々な野菜を自給している。その中に有名な地域特産「下栗二度芋(しもぐりにどいも)」というジャガイモがある。7月に収穫したイモを植えると、また10月に収穫できるので”二度芋”と呼ばれるらしい。大きさが2~3cmの小さなジャガイモだ。こちらに引っ越す前、旅行者として下栗を訪れたことがあった。宿で”二度芋”の田楽と、甘辛く煮付けたものを供され、もう一度食べてみたいと思っていた。だが、この”二度芋”、生産量が少ないため、市場に流通せず、下栗の里の食事処や、宿でしか食べることができない。そんな折、滋賀県のお隣さんのTJさんから「小さなジャガイモばっかりできた」というぼやきが、飯田まで聞こえてきた。頂戴メールを発信したら、見事な二度芋もどきのジャガイモを送って下さった。早速調理して頂く、謝々m(__)m

コロコロ新ジャガ a la 二度芋風

●小さな新ジャガイモ 500g
1.よく洗って水気を切る。皮は剥かない。
2.油が熱くならないうちにイモをいれ、低い温度でゆっくりと竹串が通るまで揚げる。竹串が通ったら、油温度を200度位にして表面が狐色になるまで揚げる。揚げると言うより、油で煮るという感覚。
3.鍋に調味料を入れ、沸いたら揚げた芋を入れて強火で絡める。
●調味料
砂糖 大さじ1、 醤油 大さじ2、 酒 大さじ2、ショウガ 少々
この”二度芋”、下栗から門外不出なのだが、平地で栽培できないか、こっそり実験した人がいる。ところが、平地で作ると、大きな芋になってしまったそうだ。標高1000m以上と、下栗の土壌が育んだ名物イモなのだ。 件(くだん)のTJさんに、高地でしかできない”二度芋”の話しをしたら、標高たった200mの近江盆地で、「粒ぞろいの小さなジャガイモを作った」と自慢しておられた。本当は、大きなイモを作る気だったらしいのだが、私は、こっちの小さいやつが好きなので、来年も失敗して欲しい(^^ゞ

2011年12月17日土曜日

おしめとグンゼの遠い関係

早春から初夏にかけて雨仰庵の周りの森の中から盛んに綺麗な鳥の声が聞こえてくる。その中でオオルリと、イカルの「ピョ~~~ヒョロホロヒョ」というのが特に好きだ。このイカルだが、春の鳥なので来年春の話題にしようと思ったが、昨日綾部の動物の話を書いたので、その関連で今日書くことにした。

現在の綾部市は、昔、何鹿郡(いかるがぐん)綾部町と言った。字は違うが、昔は斑鳩(イカル)が沢山居たのだろうか?今でも綾部市の「町の鳥」はイカルだ。橋の欄干にもイカルをモチーフにしたレリーフがある。残念ながら私は綾部時代にイカルの鳴き声を聞いたことが無かった。もちろん姿も見たことが無いので、ずっと、どんな鳥かと思っていた。
男性下着(最近は若い女性も身につけるらしいが)のトップメーカー「グンゼ」はこの綾部が発祥の地で、いまも旧本社とその記念館が綾部市にある。社名は今はカタカナだが元は「郡是」だった。蚕糸業を発展させるという何鹿郡の「郡是」の実現を目指す意味で名付けられた。綾部市はこのグンゼの企業城下町として発展してきた町だ。

雨仰庵に引っ越したのが2007年4月、最初に聞いた鳥の鳴き声があまりにも綺麗だったので、野鳥のDVDを買って調べた。それがイカルだった。だがカラマツの梢で鳴いているので姿を見たことは無かった。それが2009年の3月、大きな鳥が、シジュウカラとヤマガラを押しのけ、ひまわりの種を居座って食べている。DVDのイカルを思い出し、慌てふためいてカメラを取ってきてシャッターを切った。ほんとに良く似ているが、嘴(くちばし)の色が少し違う。イカルは黄色っぽい薄いオレンジ色をしている。この鳥は、ご親戚の「シメ」という。残念ながら鳴かない。

2011年12月16日金曜日

愉快な森の仲間達 in 綾部編

親子で記念撮影
むか~し、むかし20年以上昔。バブルの真っ最中に滋賀県から、京都府北部の小都市、綾部に転勤になった。自然に恵まれ山紫水明、20分走れば日本海、海の幸も豊富。現代文明の恩恵を享受したければ、日本でトップクラスの大都会、京・大阪に1~2時間で電車で行ける。私には仕事のことさえ忘れれば、この上ない町だった。気に入ったとなると話は速い、ここに根を生やそうと、半年後に家を新築した。若い頃からの夢「森の中に住みたい」を実現し、高台の神社と山の森に囲まれた家だった。
最初の1年間、何も気がつかなかったが、ある夜、耳を澄ますと「エハッ、エハッ、エハッ・・・」と言いながら、何者かが家の周りをぐるぐる回っている。狸の親子連れだった。この写真の中に光る点々が10ヶあるのがおわかりだろうか?3匹の小狸を連れた、たぬポン家族の記念写真だ。毎晩、決まった時刻に「こ・ん・ば・ん・は、ポンポコポン」と現れた。
とぼけた顔のアナグマ
これは明るいうちからずうずうしく現れたアナグマ。愛嬌のある顔をしているが、クマと名が付くように、大きな鋭い爪がある。毎夜現れては、我が家の猫の餌を失敬して帰る。猫が怒っても、とてもかなう相手ではないので、家の中で餌をやることにした。夏の夜、家の中のその餌を見つけたアナグマが「ご飯頂戴~~」と言って、網戸をバリバリにして入ってきた。2回も破られ、網戸の修理代6,000円也

また初冬の小春日和の日曜日、あんまり暖かいので玄関を開け放して二人とも外にいた。昼時玄関を入ると、誰かに見られている視線を感じた。ふと上り框(あがりがまち)から客間を見ると、お狐さまと目が合った。向こうもびっくりした顔をしていた。部屋の隅に重ねてあった座布団の上で、のんびりと昼寝をしていたらしい。しばらくして「ハイ、お邪魔しました~」と言う風に、ゆっくりと腰を上げて私達の足下を悠々と出て行った。 その他、色々な野鳥も窓の外1m位のところまでやってきて、楽しい動物園のような暮らしだった。

綾部市(←クリック地図)は、冬は日本海側特有の気候で雪も多いが、寒いのに湿度が非常に高い。神経病みの私には、それが堪えた。残念ながら8年後、この家を処分して滋賀県に帰ることになった。家内もお気に入りだったらしく、(私には内緒で)いまだに時々この地を訪れているらしい。

2011年12月15日木曜日

好き? 嫌い? どっちやねん?

2009年夏 ピアノ発表会にて
これからカツラのおじちゃんと
呼ばれるようになった
家内が小学校2年生の本読みボランティアで「すき?きらい?」という絵本を読んだ時のこと。話の途中に「好き?嫌い?」と言うフレーズがある絵本らしい。家内がそこを読むと、すかさず翔太から「どっちやねん?」と突込みが入った。さすが関西の7歳は鍛えられている。お堅い県民性の長野県ではこうは行かない。昨年だったか一昨年だったか(ここで、すかさずどっちやねん?)、信越トレール開通記念講演に関大の美人教授が招かれたが、山男BY氏によると「くだらない(● ● ● ● ●)駄洒落ばっかりで、みんなシラーっとしていた。」   雪も無い真夏に、完全にすべって帰ったらしい。これは、ユーモアセンス欠如の聴衆も悪い。すかさず「何でやねん?」とか「そなアホなぁ」と突っ込みを入れてやらなければ(せめて、礼儀として笑い声だけでも)、関西人は話が進まないのだ。

私も一昨年のピアノ発表会で、笑いがとれれば少しは緊張がほぐれると思って、例のバッハのカツラ(KARAコンサート参照)をつけて壇上に上がった。
広い会場が「シ~~~ン」、大人どころか子供たちまで・・?・?・?・?
もともと滑り易い頭だったが、カツラもが見事滑り落ちて、余計緊張した。

2011年12月14日水曜日

タコの家来

今日は2週間ぶりのピアノレッスン。例によって、前日から煮物を作って出かけた。
先日、石巻のYAさんご夫妻から、貴重な海産物を送って頂いた。その中に"タコ”もあったので、早速ぶつ切りにして冷凍保存させてもらった。私は生や酢の物のタコも好きだが、よくトマトと一緒にコトコトと軟らかく煮て食べるのが好きだ。で、今回もそのイタリアンダコにした。ほんとに軟らかく、タコの出汁がでて美味く頂いた(^^♪


タコとトマトのコトコト煮

今回、事前に用意しておいた我が家の”冷凍トマトセット”を使った。
トマト 1ヶ ぶつ切り と 玉ねぎ1ヶ くし切り
これをZipロックに一緒に入れて冷凍。いろんな料理に利用できるので便利。

上の冷凍トマトセット全部
タコ 300g ブツ切り
1.にんにく2片スライス、タカの爪半分種をとり、オリーブオイルで香りが出るまで弱火で炒める。
2.冷凍トマトセットを入れて火を強めて、玉ねぎが半透明になるまで炒める。
3.タコとオリーブ10ヶ位と調味料を入れて中火で煮立て、後弱火で30分コトコト煮こみ、汁にとろみが付いたら、最後に塩・コショウで味を調える。
調味料
赤ワイン 1/4カップ、コンソメスープ 3/4カップ+ケチャップ 大さじ1、乾燥バジル 小さじ1/2
(コンソメスープ+ケチャップは、いつもはトマトジュースを使うが、今回冷蔵室で醗酵爆発していた(~_~;)ので、代用・・・無塩トマトジュースの場合は+塩1/4小さじ強)


送って頂いた発泡スチロールの箱を開けたら、「食べてけらいん」と奥さんの大きな字が踊っていた。家の内・外に限らず”山の神”に恐れを抱く仙人は、すぐ携帯メールで「ハハーッ、食べたらすぐ家来になります。」と送った。(注:けらいん=石巻雄勝弁で「くださいませ」という丁寧語)

伺うところによると、来年に向けてホタテ養殖の耳吊り作業もほぼ終わったとか。YAさんも何かと町の用事で忙しくなってこられた由、やっと北の方から待ち望んだ復興の槌音が聞こえだしたようだ。

2011年12月13日火曜日

進歩するロクジュウカラ~ピアノを習って良かったこと~

ON氏 切り絵
コンサート
以前ピアノの先生に「ピアノを習って良かったこと」をマインドマップ(思い付きをそのまま図にしたもの)にしてお渡ししたことがある。そんな事をまとめた人が今までに無いらしく、喜んで頂けた。
総合すると、ピアノのお陰で、人も羨むような楽しい日々を送っていると言うことになるが、その要因を少し列挙してみる。
小奇麗になった
もともと仙人は、風呂にも入らず、髪もぼうぼう(無いけど)、髭も伸び放題で不潔である。それが、先生に会うためには、きちんと身なりも整え、爪も切り、前の日は散髪・沐浴し、いそいそと出かけるのである。
姿勢が良くなった
よくプロの演奏で、背中を丸め鍵盤に顔を擦るようにして弾く人がいるが、あれは達人だからできる技だ。素人は、背筋をぴんと伸ばさないとピアノは弾けないので、必然的に姿勢が良くなる。姿勢が良くなると、また心も体も健康になる。
両手がばらばらに動かせるようになる
昔、中村紘子がCMでやっていた、あれだ。右手と左手と違うことを同時にできるようになる。食器の片付けなどすぐ終わってしまう。
辛抱強くなった
当初独学でやってた時は、弾けないところはすぐに飽きて、すぐ弾けるところに戻って自己満足していた。弾けるところだけ、どんどん上手くなるが、何時まで経っても曲全体は弾けないのだ。初心者が陥り易い罠らしい。練習とは、弾けないところを繰り返し繰り返し・・・辛抱辛抱、そのうちこれが快楽に変わる。だが、近所の人はたまったものではない。いつも下手なところだけ聴かされるからだ。
いい年こいて、褒められるとうれしい(^^ゞ
最初の半年ぐらいはK先生もお茶を濁していて、お愛想で褒めてくれた。「半年にしてはお上手・・・」
しかし60何年も生きてくると、ほんとに褒められたか、お愛想かはすぐわかる。真剣にピアノの練習をしていくうち、「・・・・のところをよく練習してきて、良い・・」と自分が一番力をいれて練習したプロセスを褒めて貰うようになった。自分の努力したことを褒めてもらうのは、幾つになってもうれしいものだ。
1分が長~くなる
ぼ~っとしていると、1分なんてあっという間に過ぎてしまう。しかしバッハのインベンションは殆どが1分ぐらいの曲だが、弾いていると結構長い時間に思う。ショパンのノクターンなど5分以上かかる曲は、とてつもなく長く感じる。 また台所仕事の話しになるが、いつも面倒と思う食器洗いや後片付けなど時間を計ってみると、殆ど1~2分で片付く。お湯を沸かす、ついでにできてしまうのだ。そして私の肩のあたりから「テキパキ」と音が聞こえてくる。
まだまだ進歩する自分を発見できる
仕事を辞めて、体力も気力も何もかも下り坂。人生のフェードアウトの時を迎えた、と思っていた。それなら最後に子供の頃の夢だった「ピアノ」をやってみるかと始めたところ、そこには、まだまだ伸び盛りの少年がいた。こんな発見と喜びは、何もかもが成長する過程にいる小・中学生には絶対に味わえない、ロクジュウカラ・ピアノの特権だ。

2011年12月12日月曜日

トマシーノ ウラヤマシーノゥ

新しい隣人
トマシーノ
私も家内もネコが好き、滋賀県の家では真っ黒な雌の子ネコを友人から貰いうけ「クロ」と名づけた。そのクロの息子が「黒猫ブン太」だ。村一番の暴れ者で、近所で生まれる猫は皆黒猫になった。ある日なれなれしい雌の三毛猫がやって来てブン太と一緒にご飯を食べていた。「家にはブン太がいるので飼えないよ」と言って、可哀想だが家内と車に乗せて、6km離れた山道においてきた。行く道中、ず~と窓の外を見ていたが三日目、その三毛猫が「こにゃにゃちにゃ~ん」と言ってやってきた。そこまで見込まれちゃぁ仕方が無い, 「ミミ」と名づけて一緒に飼うことにしたが、ブン太の子供を産むわ産むわで、最高七匹のネコが我が家で暴れまわっていた。戸は爪研ぎでささくれ立ち、ふすまはバリバリに破れ、動物園の臭いがするとよく人に言われた。
雨仰庵でもネコを飼いたいのだが、「どうせ一人じゃぁ面倒見切れないでしょ!!」と家内にきつく止められている。確かに自分ひとりの面倒見るのが精一杯なのだ。
そんな昨日、近所の親しくしてもらっているチョウキチのIGさん宅に、突然メタボの雄ネコが住み着いてしまった。首輪と鈴はつけているし、少しも汚れていない。どうも飼い主が車で山の中に捨てにきたらしい。久しぶりにネコに触らせてもらった。やっぱりネコは良い。奥さんは「ネコちゃん」と呼んでいた。まだ名はない。

ばぁ~
今朝のニュースで、「イタリアの資産家が亡くなって、法律上ネコは相続できないので、その愛猫がなついている看護師さんが、10億円の遺産を相続してネコの面倒を見る」と流れた。

早速、IG家の新しい住人は、その金持ちネコの名前を貰って「トマシーノ」と名づけられた(^^♪

2011年12月11日日曜日

毎日がルームサービス

独・ライフハイト社
サイドカー
昨日も書いたが、とにかくよく転ぶようになった。たった3mの距離だが、キッチンから食卓まで出来上がった料理を運ぶ最中にも、何度食器を割ったか数知れず。食べる前は、もっと悲惨だ。その日の楽しみの1/3があっという間に失われる。
そこで少々面倒とも思ったが、たとえコーヒー一杯でもワゴンテーブルで運ぶことにした。
道具にはこだわる仙人は、近所の家具売り場ではなかなか気に入ったものが見つからず、以前から気になっていたカタログハウスの独・ライフハイト社製の「サイドカー」に決めた。ぺチャンと折りたためるのが売りだったが、我が家ではずっと活躍中で、折りたたむ暇が無い。キャスターが国産のものより倍ほど大きいので、少々の段差はへっちゃらだ。そしてデザインがシンプルでスマートだ。
最初、料理などを運ぶだけと考えていたが、狭い台所でサイドテーブルとしても大活躍。

そして何より、ホテルのルームサービスを自作自演できて、お食事が豪華になりましてざ~ます。

2011年12月10日土曜日

赤いスポーツカー

以前述べたが、私は医者に「よく、こんな筋力で歩いてますね」と言われたことがある。普段2本足で歩く時は、仙人が雲に乗るように、ふわふわと天から糸でつられたマリオネットのようだ。
脳は不思議だ、昨日のようにゴミ箱に入っていた記憶が突然鮮明に現れたり、私の足が具合悪くなってから、かれこれ15年以上経つのに、いまだに元気な頃のように、つま先がちゃんと上がって歩いているように勘違いしている。一方で、最初に書いたように省エネ歩行にも順応してくれている。
そんなわけで、脳が勘違いしている時、よく躓いて転ぶし、突然外力が掛かると踏ん張るエネルギーが無いので、そのまま転んでしまう。
しかし外から見ている人には、普通に歩いているように見えるらしい。

昨年のある日曜日のことだ、いつものように近くのスーパーに買い物に出かけた。親子連れなどで賑わっていたが、元気な5歳ぐらいの男の子がうれしそうに夢中で走り回っていて、私に軽く接触した。(私としては当然のことながら)スッテンコロリン、床に叩きつけられた。コンクリートの床は痛い。
近くにいた若い母親が「だから、静かにしていなさいと言ったでしょっ!!!」と坊やの頭を一つ、どついて(殴るという関西弁)そのまま、謝りもせず、私を助け起こすでもなく行ってしまった。
オイオイ、おれはどうなるんでぇ?? 実は私は仙人なのに、平らなところでは自力で立ち上がれないのだ。しょうがないので、近くの野菜の棚まで這って行って、それにつかまってやっと四足歩行から二足歩行に移行した。
私は子供は元気なのがいい、ましてや男の子は腕白が良いと思う。子供が母親に殴られないように、それから土日・祝祭日は買い物自粛。普段も車椅子で買い物に行くことにした。
ところが、今までの車椅子がやけに重く感じる。車の積み下ろしが大変、いつの間にか腕の筋力も落ちてきたのだ。そこで写真の赤いスポーツカー11kgに乗り換えた。メーカーカタログによると、これは女性用に開発されたおしゃれな車椅子らしいが、爺さん、そんなこたぁ言ってられない。

2011年12月9日金曜日

私の頭の中のゴミ箱から甦った記憶

「手描室」入門の定番メニュー
レモンお一つどうぞ
今日は11月29日ブログ「入門 ”手描室”」の正式入門初日だった。手描室の初日の課題は「レモンの素描」だった。皆さんのスケッチブックを開くと、1ページ目はレモンの絵が描かれている。
最初思ったようには鉛筆が走らず(あたりまえか)、線が波打っていたが、ふと、息を詰めて描くと、あまり波打たずに描けることがわかった。 そのため、4時間もの間、海で素潜りをしているように息をこらえては描き、「スハーッ」と深呼吸をしてはまた潜り?・・を繰り返していた。家に帰り着いたらグッタリ、今日はブログも休もうと思っていた。
早く休もうと思って、風呂に入り”湯ったり~な”していたら、頭のゴミ箱から、突然とんでもない記憶が甦った。
今日、先生と昼食をともにさせて頂いた時、共通の話題として「ピアノを弾かせてもらった喫茶店」(11月21日ブログ「老学事始 その2 本物のピアノを買う」)の話しが出た。先生はあの喫茶店のママとは旧知の仲だった。

2008年の春先(だったと思う)、「もし客が誰もいなかったら、またピアノを弾かせてもらおう」と思ってその喫茶店に昼食をかねて出かけた。が、カウンターの私の右隣に先客がひとりいた。ママが「先生」と呼んでいた。
ママが「さん、ピアノ弾いてもいいわよ」と言ってくれたが、客がいたので、もじもじしながら「今日はいいです」と言うと、右隣から「男なら弾いてみなさいよ!!!」と声が聞こえた。
「うるさいオバはんやな」と思いながら、気が弱い仙人はすごすごと退散した。
あのキッとした目力(めじから)・グレーのちょんまげ・・・・・とつぜん風呂の中で甦った。「手描室」の佐々木先生だった。 なんと、ピアノと「手描室」がこんなところで接点があったとは思いもよらなかった。
ほんとに人の縁とは不思議なものだとつくづく思う。

今日は、優しくご指導いただいた。

2011年12月8日木曜日

Tシャツ君と10枚だけの年賀状

思ったより本格的なスクリーン印刷機
Tシャツ君
  私が脚に障害があるのに、なんでこんな急斜面ばかりの山奥に住み始めたのか?一つの理由は20代の頃から森の中で暮らしたいと言う願望があったからだ。もう一つの理由は、私自身が人との付き合いが苦手、というより非常に疲れる。それで人生の最盛期を過ごした関西圏から遠く離れた飯田の山奥で隠遁生活を始めた。関が原には、「ここから先は魔物が住むので入るべからず」と立て札を立て結界を張った。(それでも結界破りの危険を冒すまでして、訪ねてくれる友人達がいる。ありがたいことだ)
  新しい生活を始めた次の新年から、それまで400枚ぐらい印刷していた年賀状を(飯田での付き合いだけに絞り)10枚だけにした。その代わりと言ってはなんだが、20年ぶりに木版で年賀状を作り、宛名も下手でも筆で書くことにした。
  その版画だが、版下作りが一番面倒だ。反転した下絵をなぞりながらカーボン紙で何色分も転写していたが、老眼と1/10になった根気では耐えられなくなった。なんとか版木に直接印刷できないかと思いついたのが、昔流行ったプリントゴッコ。ところが、パソコン印刷のあおりを受けて、とっくの昔に販売中止になっていた。ネットで行き着いたのが、この「Tシャツ君」だ。本来は、Tシャツにスクリーン印刷する道具一式だ。これで版木への版下転写は一気に楽になった。良く考えたら、折角の本格的なスクリーン印刷機があるのだ。木を彫らずとも、それで直接手作り年賀状を作ってもいいなとも思う。が、頑固一徹、一度木版と決めたら、もくは~ん!!

今日、郵便局へ年賀ハガキを買いに行った。皆さんまとめて100枚・200枚と帯を切らずに買っている。

    「普通の年賀ハガキ、10枚下さい。
    「(たった)10枚だけでよろしいのですか?」 
    「はい
    「ハガキの種類もいろいろございますが、インクジェット用ではないのですか?
    「違います
    「絵が印刷されているのもございますが?
    「いりません
    「では、普通の年賀ハガキでございますね?
    (だから最初っから普通のって言ってんじゃん!!

何年か前までは「インクジェット用年賀ハガキあります」なんて貼紙がしてあったが、もうじき「普通の年賀ハガキあります」なんて貼紙がでんるんだろうか(~_~;)

2011年12月7日水曜日

津波から甦った 奇跡の”江差恋しや”

11月9日の「石巻市雄勝のこと」で紹介したYAさん(くれぐれもヤーさんと読んではいけない) は無類の歌好きだ。それも、自分で吹き込んだ歌をCDに焼いて、人に配り歩くという傍迷惑な癖を持っている。捨てるに捨てられず困ったと思って義理で聴いてみると、皆驚き、感動し、自分だけが貰えたことに感謝するようになる。素人を通り越したプロ並みの歌なのだ。
そんな彼が、3月の大震災で家が津波の被害にあい、(たぶん家族の次に)大切にしていた、カラオケセットやCD作成機も流されてしまった。
パソコンお宅の仙人が「人にやったCDを借りてきたら、うちでダビングしてCDが復元できる」と申し出たら、ある日十数枚のCDとCD-Rが送られてきた。ダビングしている時、CDの表面に無数の細かい傷がついていることに、ふと気づいた。YAさんに聞いてみると、それらは津浪で埋もれた泥の中から探して掘り出したものだと言う。「泥を水で落としたが、その時付いた傷ではないか」と言うことだった。
今、私のPCのiTunesには、歌手YAの奇跡の甦り曲が178曲、10.8時間分入っている。その中からYA-BESTというプレイリストを作って、料理を作る時のBGMにしている。YAさんの歌を聞きながら作ると、何故かわからないが”美味しくできる”のだ!(^^)! 今日も、リンゴをジャムりながら聴いていた。
仙人が特に好きなのが「江差恋しや」だ。蕩々(とうとう)として哀愁を帯びた歌声を聴くと、疲れた心は癒され、心が辛い時(と言っても、最近私は辛いことが全く無いのだけれど)涙が自然と流れ、ピュアな気持ちになれる。是非、上のビデオでその歌声を聴いて欲しい。(ノートブックの場合イヤホンを用意し良い音で)

辛いと言う言葉で、星野富弘の「幸せ」という詩を思い出した。

「幸せ」
           星野冨広
       幸せ という
       花があるとすれば
       その蕾のようなものだろうか

       辛いという字がある
       もう少しで
       幸せに
       なれそうな字である

2011年12月6日火曜日

雨仰庵と愉快な仲間達 KARAコンサート

KARA Concert
Invitation Card & Program
年末年始になるとGARAコンサートというものが、よくテレビで放送される。記念演奏会、祝賀演奏会という趣旨の演奏会だ。
ピアノのK先生に師事して1年半経った頃、「プライベートコンサート開いたら?ピアノ上達するわよ」と、「人前では弾かない」という私の信念を揺さぶってきた。上手くなるならと、半年準備して「シジュウカラ・ゴジュウカラ・ロクジュウカラ楽しくなるKARAコンサート」を2010年5月に雨仰庵ホールで開催した。飯田で一番美味い蕎麦屋「屯(たむろ)」の蕎麦コース付だ。

第一部 バッハ
 1.平均率クラヴィーア集Ⅰより
    プレリュード1 ハ長調 BWV 846
 2.インベンション4 ニ短調 BWV 775
 3.インベンション14 変ロ長調 BWV 785
 4.平均率クラヴィーア集Ⅰより
    プレリュード3 嬰ハ長調 BWV 848
第二部  ショパン
 1.プレリュード 変ニ長調 op.28-15 「雨だれ」
 2.ノクターン 第20番
    Lento con gran espressione
    嬰ハ短調 op.pos.
 3.ノクターン 第1番 変ロ短調 op.9-1

ピアノを少しでも習ったことがある方なら、こんな曲が、たった2年習っただけで弾けるわけがないと思うだろう。そのとおり、散々の出来だった。K先生曰く「まさか、ほんとにコンサートやると思わなかったモン」
上出来だったのはこのカツラだけだ。ほんとはバッハのカツラを付けようと思ったが、3万円もする。そこで安い「中世の判事のカツラ」=1500円にした。これは大いに受けた(^^ゞ
(注:バッハも私と同じ、ツルツルのハゲだった!(^^)!)
屯で昼食と懇親会を開いたが、蕎麦をたぐりながら「演奏がなけりゃ、もっと良かったのになぁ」という不逞の輩が出る始末、挙句の果てに私のピアノ演奏に中(あた)って体を悪くした人が出た。いまだに再演の予定もリクエストも無い・・・・

2011年12月5日月曜日

名物ブランド「市田柿」

市田柿の柿すだれ(信毎新聞掲載)
今年も干し柿の名ブランド「市田柿」のシーズンがやってきた。透き通るオレンジ色と上品な甘さが絶品だ。子供の頃、毎年、年末になると親父のところにお歳暮で届いた。今の私にはお歳暮なんて届いたことが無いので、今更ながら親父は偉かったんだと思う。雨仰庵に引っ越して1年間、自分が子供の頃大好きだった市田柿産地の真っ只中に住んでいるとは気がつかなかった。市田は飯田市の隣町「高森町」にある大字の地名だ。
土地ではこの市田柿のことを”ころ柿”と呼ぶ。製造工程の中で、表面に糖分の粉をふかせるためバレルをかけるからだ(樽の中に入れて転がすようなもの)。出来上がるまでに1ヶ月以上の手が掛かる。特にお歳暮時期の今頃は、一箱ん千円もする高級ブランドだ。家内も私もこの贈答用なる、大きくて綺麗な市田柿を食べたことが無い。そこで昨日、知り合いの柿農家に行って、いいやつを買おうとしたら、「こっちに安いのが在りますよぅ」と言って、結局ハネダシ(出荷停止もの)お徳用ビニール袋入りを買う破目になってしまった。
「ご無理の無いところで」のピアノのK先生と雪男BY氏も無類の市田柿ファンだ。年も明けると急に安くなるので、ピアノレッスンの折、お徳用ビニール袋入りを持参することがある。家族に取られない様、両手に一つずつ、もう一つ口に咥えて、こっそりと押入れに隠れて食べるらしい。

ブランドと言うと、食べ物、衣料品、雑貨などを思い出すが、地名そのものにもブランドがある。東京、大阪、京都など・・・特に関東では「京都」は憧れブランドだ。かく言う静岡生まれの私も(関西から見て中途半端な関東人である)、京都に憧れ、そこに本社があるO社に就職した。結局滋賀県の事業所に配属になったが。

私が滋賀県から静岡の実家に帰ると母親が
見栄をはって「息子が京都から帰ってきた」と近所に触れまわっていた(^^ゞ

2011年12月4日日曜日

平安の色男、恋に死す

国宝 今昔物語
(鈴鹿家旧蔵)
私の受験生時代は灰色だった。私が通っていた高校は、3年生になると”文系”と”理系”に分けてクラス編成をした。当時は”理系”に進学する女子は皆無だった。当然、ひそかに想いを寄せる彼女とも離ればなれになった。
地理や特に歴史が苦手な私は、受験選択科目に”古文”を選んだ。(当時は必須・選択を含め、7科目位の試験があった)
所属する弓道部の副顧問だったT先生はよく目をかけてくれたが、また授業中によく名指しをされた。「O君、”日置”は何と読むか?」「・・・・・・・」  今なら簡単に答えられる、弓道部だからこその(意地悪)質問だった。当時の弓道部の流派は”小笠原流”、かわいい少年には”日置流(へきりゅう)”という弓道の流派があることを知らなかった。 この先生が人気があったのは、授業の最初に始める”艶話”(男子クラスのみ、今で言うツカミ)だった。話し出すと30分、興に乗ると授業が全部それで終わった。ここでは書けないきわどい話も沢山あったが、特に印象に残っている話は、平安時代の「片思いに身を焦がす男」の話だ。ずっと私は、”徒然草”か”枕草子”の中の話と思って探したが見つからなかった。そのはずだ、"今昔物語 巻30の1"の話しだった。芥川龍之介の「好色」の原話として有名な話らしい。

ある貴族の男が、さる高貴なお屋敷の侍従の麗しき女性に一目惚れをした。かなわぬ恋に、思いつめた彼は「あの人のウ○チ」を見れば幻滅して諦めがつくと、下女が川原に捨てに来た蒔絵のオマルを奪って逃げた。
家に帰って開けてみると、代わりに香が焚きこめられていて、その奥ゆかしさと聡明さに益々恋焦がれ、狂い死にしてしまった・・・・

(当時十二単の女性は、オマルで用足しをしていた。下女が捨てにきたものは、おとりだったのだ。)

2011年12月3日土曜日

私の財布は何故軽い?

ダイエットというと、女性の「美容のため」、メタボ対策の「健康のため」と言うのが一般的な目的だ。最近、私は何のためにダイエットしているのだろうと自問したことがある。前述の二つの目的には当てはまらない。
以前大阪の病院の神経内科の医師に「よくこんな筋力で歩いてますねぇ」と感心されたことがある。スケッチが得意な屈強な山男BY氏が、たった200gのスケッチ用鉛筆ホルダーを「重いので、ザックには入れられない」と言った事がある。わたしの日常歩行は昔楽しんでいた山登りのような感覚だ。自分のダイエットは、できるだけ長い間、二足歩行することが目的だった。
こんなことを考えなかった頃ダイエット中、とにかく体重を軽く記録したい想いから、朝晩二回スッポンポンで計測していた。おまけに、1万円も叩いて入手したダイエットレシピに、朝晩姿見で自分の裸を見ろと書いてあった。”蝦蟇の油”式ダイエットだ(^^ゞ
しかし「自分で歩ける」ことを目的とした私のダイエットでは、日常の服を着た状態、かばんを持った状態など身につけたもの全てが、自分の体重となることに気がついた。それから、普通の格好で体重を計るようになった。これで寒い朝も風邪をひかずに済む。
左のグラフは当初裸で計測、途中から服を着て計測に切り替えたものである。女子栄養大学のカロリー計算ソフトとiPhoneでカロリー摂取と消費をコントロールするようになって順調に減ってきた。
皆さん、たまにフィットネスにお金をかけるなんて無駄ですよ。ラーメン1杯食べるとクロールで一時間泳ぐのに匹敵する。それより、日常の家事(調理、掃除、洗濯などなど)と、できる人は毎日の散歩で十分エネルギーを消費できる。カロリー管理してわかったことだが、大好きなお菓子だけは、一日の中で何回も食べるチャンスは無い。なので、厳選したお菓子を一回だけ、大切に食べるようにしている。
先日買い物の釣り銭が沢山貯まって、財布がパンパンになった。家内に「重いので両替して」と頼んだら、なんの冗談を言っているのかと言う顔をしていた。理工系仙人としては実証を重んずる。キッチンスケールを持ち出して、100円硬貨20枚と1000円札2枚の重さを比べて見せた。これだけで約100gの体重を減らすことができる。経験者はお解りと思うが、100g体重を減らすのに皆、大変な思いをしているのだ。
だから私の財布の中は札だらけ。しかし敵もさる物、すぐに羽根を生やして飛んで行ってしまう。

2011年12月2日金曜日

キマルリ夫人の意外な生い立ち

キマダラルリツバメ
京都蝶の会 西田氏撮影


ハリブトシリアゲアリ
「キマルリ」と聞いてわかる人は、完全チョウキチだ。「キマダラルリツバメ」という蝶をチョウキチ達は短縮してそう呼ぶ。(注:チョウキチ=仲間内では”蝶友”と言うらしい。外部から見ると蝶に狂った人たち) 半分チョウキチの家内が折り紙つきチョウキチM博士の蝶の写真集で見つけ、博士からこの蝶の驚くべき生態を教えて頂いた。蝶は”卵” → ”幼虫” → ”蛹” → ”成虫”と成長してゆくが、この蝶は卵から孵化すると自分からハリブトシリアゲアリの巣に入っていって、蛹になるまで蟻に餌を貰って育ててもらうのだ。Wikipediaで”キマダラルリツバメ”を見ると、”ハシブトシリアゲアリ”に育てられると誤った記述がしてある。何度”ハシブト・・・”と検索しても出てこない。京都蝶の会の西田さんに聞いて、”ハリブト(針太)・・・”が正しいことがわかった。このようにネットのしかもWikipediaのようなところでも間違った情報があるので、注意が必要だ。今年の6月、M博士と西田さんから、キマルリの写真撮影にお誘いいただいた。予定の土曜日の天気予報が雨だったため、家内と私は一日繰り上げて金曜日に教えて頂いたキマルリスポットに出かけた。だが、みごとキマルリに振られた。結局、土曜日は雨が降らず、予定通り撮影に行かれた西田さんの前にはキマルリが現れた。

今年も後わずかになったので、雨仰庵に来てくれた仙人の仲間達を少し紹介する。
まずは美しい「ミヤマカラスアゲハ」窓の外でキラキラと青く輝いているものが来たらカメラを持って飛び出す。何回もゆっくりと食事をしに来て撮らせてくれた(以下、仙人とうちの奥様の撮影:写真をクリックすると拡大表示)
ミヤマカラスアゲハ♀
ミヤマカラスアゲハ♂

次は「ゴマダラチョウ」 今年の春まだ浅き時分、国蝶の「オオムラサキ」さまに来てもらおうと敷地内に食樹の榎を植えた。そうしたら同じように榎を食樹とするゴマダラチョウがやってきて卵を産んだ。この写真は蛹から羽化直後。普通飛び立つ前に準備運動をして翅を数回拡げるが、この子はあっという間に飛び立ってしまった。右はその幼虫。独特のスタイルをしている。私はこれをオオムラサキの幼虫と思って、喜び勇んでM博士に報告したことがある。殆ど同じだが、背中の突起の数がひとつ少ないのだ。最近越冬のために頭が少し茶色になって枯葉の中にもぐった。
ゴマダラチョウ
ゴマダラチョウの幼虫

テングチョウ
テングチョウはオオムラサキ、ゴマダラチョウと同じように榎を食樹とする。植えたばかりの榎に若葉が出たとたん、いの一番にやって来た。顔の先が天狗のように長い。

アサギマダラ
秋になると、台湾の方へ3000kmも渡りをする中継地として「アサギマダラ」が飯田にやってくる。ヒヨドリソウやフジバカマの花がお気に入りだ。

イカリモンガ
最初綺麗な蝶だなと思って写真を撮った。が、もっとも”蝶”のように見える”蛾”だ。イカリモンガ、前翅のオレンジ色の模様が錨に似ている。真昼間堂々と翔んでいて、とまる時は翅を閉じてとまる。
6月のキマルリの撮影時には、予定外にもかかわらずM博士ご夫妻がわざわざお越し下さった。私と家内はバタバタと蝶を追いかけまわしていたが、ひとつの花を決めるとじっとその前で1時間ぐらい蝶が来るのを待っておられた姿が印象的だった。我々のように蝶と見ればシャッターを切る雑魚釣りとは違う、プロの写真家の姿をそこに見た。 あまり撮影に夢中になり、駐車場に行ったら門が閉っていた。見ると4時半で閉園と書いてある。宿直の方に平身低頭して門を開けていただいた。後15分で宿直は終わり警備保障に引き継がれるとか、飯田に帰れなくなるところだった。あんなに大声を出したのは久しぶりだ(^^ゞ
雨にはフラレナカッタが、キマルリにフラレタ・・・お後もよろしいようでm(__)m

2011年12月1日木曜日

栄えあるリストラ1号

産業医の先生の紹介で、京大病院神経内科を受診したのは47歳の時だった。その時、「最悪の場合、3年以内に歩けなくなります」 病名はPPS(パイポ・パイポのシューリンガーではありません) と診断された。
40歳ぐらいから脚に変調をきたし、当初「脚気」と思ってビタミン剤を飲んでみた。最後のSはシンドロームのS、いろんな症状がでるが、私の場合は強い倦怠感、膝カックン(突然転ぶ)、あっちこっちこむら返りなどなど。進行性の運動神経をやられる病気で、最近は体幹・上腕・指にも影響が出てきた。
丁度そのころ常務に呼ばれて、ドイツの子会社への転勤話があった。憧れの海外転勤、おまけにドイツだ。そのために英会話も習ってきた。(といっても、最後まで”生活レベル”と言う評価だった→ビジネスはできないが、飢え死にはしないと言う英会話のレベル) 医者からストレスが一番いけませんと言われており、見かけはなんとも無いのだが、とても転勤できる状態では無かった。
5年後春先に1ヶ月ほど殆ど寝たきりになり、家内が「ケ・セラ・セラ」と言うので思い切って退社することにした。1999年、その頃バブル崩壊の影響で世間ではリストラの嵐が吹き荒れていた。社員に優しいと評判のO社も、遅ればせながら”早期退職者制度”と言うものを作った。ラッキーだった、退職金が大幅割り増しになる!(^^)! ある日、本社の人事部長から直接電話が入った「君がこの制度適用第1号だった!」
私の体調は今でもそうだが、春先から初夏(桜が咲いて、若葉が出る頃まで)と秋口から初冬(紅葉が綺麗なころ)の年2回、誰もがウキウキと出歩く行楽のシーズンが最悪だ。手続きの都合で退社は7月末となったが、その頃は「辞めなくてもいいんじゃないか」と思うぐらい体調は良くなっていた(^^ゞ

理想の辞め方は、綺麗なおねえちゃんと浮名を流し「私は d(^^)! これで会社を辞めました」(パイポ式退社)だったが、儚い夢だった・・・10年経って、やっと病気のことも冗談で言えるように吹っ切れた。これもずっと支えてくれた皆さんのお陰だ。感謝してますm(__)m

2011年11月30日水曜日

たてがみの無いライオン

今日は4週間ぶりのピアノレッスン、366個目のきんつばを持って出かけた。しばらく走ってから、チェックリストに従い入念に準備した、お稽古セットのかばんを忘れたことに気がついた。楽譜はどうせ見ないのでいらないが、月謝も一緒に入っていた。K先生に叱られる。急いで戻って、こういうときは(独り言:「長いことアメリカで暮らしていたので」と、お呪いを唱えながら)部屋に土足で上がる。靴を脱いだり履いたりが大変なのだ。
最近の私の病状から、長距離運転は体に堪える。厳しいピアノレッスンの後はさらに堪える。4回ぐらい休憩してやっと山小屋に帰り着いたら、くたくたで夕飯を作る気力など無い。
だから、ピアノレッスンがあるときは、前もって煮物などのおかずを準備してから出かける。今回は3日前からテールシチューを作って出かけた。


テールは予め煮こぼして水で洗ってから、うちのT-falでは30分加圧後、放置する。それを煮汁ごと一晩冷蔵庫に入れておけば、翌日, 上に固まった白い油(ヘッド)は簡単に分離できる。この方法はひいきのフレンチレストラン”富たん”のシェフから教えてもらった。プロはこれを2~3回繰り返して油を抜くのだそうだ。これだけで、テール1/2本分、700g、煮汁は煮こごりになった。
よくもまあ、牛はこんなものを振り回すものだ(^^ゞ


  1. いつもは面倒なのでたまねぎペーストを使うが、あいにく在庫が無かったので、たまねぎ1個スライスして、バター20gで狐色になるまで炒める。これだけが大変だ。
  2. ジャガイモ 2個、にんじん1本、食べる用のたまねぎ1個を適当な大きさに切って牛テールと一緒に放り込む。
  3. 赤ワイン 1カップ、ドミグラスソース缶詰1缶、テールの煮汁1カップ、ブイヨンキューブ1個を加えてコトコト1時間(30分でもいいような気がする)放って置けば良い。ころあいを計って、塩・コショウで味を調える
  4. 最後にブロッコリーを加えて5分
でもここで食べちゃだめだめ。カレーもそうだが、シチューも翌日以降が美味い。

一番大きなテールを盛り付けたら、なんとこれだけで260gもあった。骨が重いんだ、と言うことにしてガブリ。ほっぺたが落ちるとは、この事だ。

ふと気がつくと、夜のガラス窓に何かうごめくものが・・・
たてがみの無い禿げた雄ライオンが、牛の骨をしゃぶっている姿が映っていた。