2011年11月9日水曜日

石巻市雄勝のこと

雄勝公民館 バスが屋上に!
  この3月11日午後3時前、雨仰庵居間で関西で言う「頭がふいふいする」眩暈におそわれた。以前わずらった「良性発作性頭位目眩症」の再発かと思いきや、天井から下がっている明かりペンダントがガンガンと揺れている。地震だ、と思ってすぐテレビをつけたら、震源地宮城県沖、震度6強とすぐ放送された。これがこんなに悲惨な出来事の始まりとは思っても見なかった。  が、ぬくぬくとストーブに温まりながら、車や家が次々と津波に飲み込まれていく姿をテレビで見ている自分にふと気がついて情けないと思った。報道により次々と被害の大きさがわかってくるにつけ、石巻に住んでいる友人YAさんが心配になり、電話してみたがつながらない(今思えばつながるはずがない)。つぎにいろいろとネットや携帯サイトを探したが見つからず、2日目になって盛岡に住んでいる彼のお嬢さんが、google person finderで家族の安否を尋ねているのを発見した。ますます心配になり、飯田のリンゴ農家の知り合いのお嬢さん→滋賀大ネットワーク→彼の親戚・・とたどり、やっと家族全員無事という確認ができたのは1週間後であった。被害状況を知るにつけ、良くぞ無事生き延びてくれたと涙が出てきた。いまこのブログを書いていても涙が出てくる。それにしても、人の縁とかその絆の不思議を感じた1週間であった。

3月29日にYA氏の滋賀県の親戚の方が集めた支援物資を目一杯ワゴンに積んで出かけることにしたが、現地ではガソリンの給油ができないということでリザーブタンクを探したが売り切れで入手できず、出発当日朝、2日掛りでやっと40L分(注:こんなときは危険物取締法なんてくそくらえだ!!)準備できたら、今度は飯田でもガソリンの給油制限が始まってしまった。ガソリンスタンドを梯子して何とかなるだろうと(これは家内の発想)中間点の新潟のビジネスHだけ予約して出かけた。 被災地支援の許可なく(変な許可があるもんだが)現地入りした私たちは、途中から現地に入ることができず、友人と仙台郊外で出会い、物資を渡すことになった。今思えば、北上川沿いの道は決壊、女川町は通行止めで、許可なく入るは禁ずは正解m(__)m。

7月半ばにまた訪問した。今度は雄勝まで入ることができたが、街全体が吹き飛んだようなすさまじい光景にただただ呆然・・・とてもシャッターきる気持ちにはなれず。一枚だけ撮らせてもらったのがこの写真である。雄勝町中心部の公民館の屋上にバスが流れ着いた。
被災された人たちの人生を一瞬で変えてしまった出来事だったが、現地に立った我々の人生観も一瞬にして変える景色だった。6月から仮設住宅に入ることができたそうだが、あの景色はあのままらしい。先はながいので、頑張り過ぎないことをお願いしたい。

おとといのニュースで、雄勝中の生徒が、古いタイヤにビニールテープを張って、東京駅と修学旅行先の京都のさる中学で太鼓演奏をしている姿が映って感動物だった。雄勝中学は、かのYA氏が数年前まで校長をしていて、私も中学を訪問したことがある。7月に訪れたとき見た中学校の校舎は津波に呑まれた無残な姿であった。全校生徒無事だったと聞きほっとする思いと、太鼓演奏の見事さに明るい未来を感じた。この子達がいれば大丈夫だ。「黒船太鼓」と言うのだそうだ。そういえば、雄勝には、支倉常長が遣欧使節として赴いたとき乗船した「サン・ファン・バウティスタ号」を建造したドックの遺跡がある。 またニュースの中で、改装中の東京駅の屋根のスレートは硯石で有名な雄勝石を使っているとか。そういえば、雄勝石の工場跡から東京駅に送るスレートを掘り出しているニュースがあった。私事だが、10月に親父の法要で寺に行った時、その玄関に敷き詰めてあったのは雄勝石だった。ここでも不思議な縁を感じる。

被災地の様子はまったくニュースで流れなくなったが、その後変わっていないようです。これからの皆さんの支援をお願いしたい。


 雄勝町は→ここ