本日は尾籠(びろう)なお話、トイレのいまはむかし。
「尾籠」とは、下品な(特に下の方の)話を上品にする魔法の言葉である。20数年前現役時代、会社で「尾籠な話だが」と前振をして下品な話しを始めたら、部下のオネェちゃんから「尾籠な」とはどういういみですかと聞かれ、魔法が消えて話の続きができなくなった。今であればセクハラで訴えられるかもしれない。
我が家のトイレは、市の条例で(下水道を整備しない地域には)簡易浄化槽を設置しなさいということになり、2年前最新式のものになった。
最近のトイレは前に立つと蓋が開く。だが、「男子が小用」を察知する機能はなく、便座を適宜上げてくれるわけではない。男らしい小用には対応していないのでグレードを下げて採用を却下。蓋は手で上げることにした。
また、用足しが終わると自動的に流す機能も付いている。これも不要と思ったが標準機能で外せない。それでスイッチをOFFにしておいた。いつだったかトイレに立った時、フタを開けると朝のものがそのまま流さずにあって、とうとう始まったかと非常にショックを受けたことがある。自分一人しか居ないのに、なぜか死ぬほど恥ずかしかった。それからトイレでショック死を避けるためスイッチをONにした。◯◯予備群老人のトイレでのショック死を未然防止している”とうとう”は素晴らしい会社だとよくわかった。
もともと”とうとう”がウォシュレットと称してシャワーでお尻を洗ってくれる機能が画期的だった。当初竜王の家に設置したものには乾燥機がついていて、紙が無くても大丈夫というのが売りだったが、乾燥機をONして何時間座っていても乾かない。聞いたら、先に紙で拭いてくださいという返事が来た。そんなら紙で拭くだけでいいじゃないかと使わずにいたら、最新のものには温風乾燥が付いていないことを先日になって発見した。もともと期待していない機能なので、それがなくなっていても気が付かなかったのだ。世の中で期待されていない私もこうやって消えていく運命なのかと、少しお尻乾燥機に同情する。
トイレの紙というと「母ちゃん紙」という子供の頃の定番ギャグを思い出す。ひとりが「かぁちゃん」というと、もうひとりが「紙〜」と間髪をいれず突っ込む。 今で言う流行語大賞だ。この紙のことを「落し紙」といったが、トイレのことはポットン便所とよんで、地球の重力をたくみに利用した超省エネ型だった。私の生家のこの個室には、「かぁちゃん紙」を差し入れるための小さな戸がついていた。
とうぜん田舎には下水道なるものはなかったので汲み取りが必要。更に当然のように汲み取り業者なるものはない(東京には江戸時代から汲み取り業者があったらしい、それもお金を置いていったという) 汲み取りは、天秤棒で前後2つの肥桶を担げるように体力がつくと、子供の仕事になる。親に言いつけられ、汲みとった物を畑の肥溜めまで運ぶ。肥溜めは新鮮な◯◯こを貴重な肥料に醗酵させる、いまでいう有機化学プラントだ。何ヶ月も寝かせたものを水で薄めて畑に撒く、これを「下肥」という。となりの家にはこの化学プラントがなく、直接畑に撒いていたので近所中臭くて大迷惑だった。
何ヶ月も醗酵させていると、表面がカチコチになり大きな石を投げても沈まない。なかにはこの上に乗って「大丈夫だい」と遊ぶワンパク坊主がいた。あるとき突然表面が破れてはまったが、臭いのでみんな助けもせず逃げてしまった。 翌日、無臭でしゃぁしゃぁと学校に出てきたのは、いまでも謎に包まれたままだ。この謎がとけていれば、昭和30年代初には優秀なトイレ消臭剤が開発されていたことだろう。
大掃除の時は便器を外して、裏の小川で洗っていた。これも子供の仕事、むかしは人使いがあらかったのだ。縄を細長く巻いてタワシをつくり、ゴシゴシこすっていた。どおりで裏の川のどじょうは肥えていた。
トイレ掃除といえば某黃帽子のK社長が始めた「日本を美しくする会」 この人はエライ人だが、だんだん自分の人格形成のためではなくパフォーマンスのために参加する人間が増えた。特に大企業の管理職にそういう人がいた。「トイレ掃除も修行のうち」学生時代、永平寺を訪れた時、案内のお坊さんが言っていた。自分を磨くためにトイレを磨くとは見上げたものだが、まず、自分の家のトイレ掃除をすればいいじゃないか、参加費もタダだ。禅の言葉に「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」というのがある。自分の足元をよくよく見よという意味だ。しかし普通の家庭では会話が途絶えて幾星霜、急にトイレ掃除をやると「浮気でもしてんじゃぁないの?」と勘ぐられるのが心配かね?
家のトイレも汚れているのだ、特に男はトイレを汚す。自分でも「なんで男は何十年ものあいだ、まともにトイレが出来ないのか」と思うぐらい、結構広い的(マト)なのに朝顔の外に飛び散る。最近のママは、おこって男の子にも座ってするように躾、20〜60代の男性の33%は座ってするそうだ。
これは万国共通の課題らしく、世の中には、こういうことを真面目に研究している人がいる。オランダの研究者が朝顔に(絵の)蝿をとまらせたら、まわりが汚れなくなった。蝿をおしっこで撃ち落とそうとする男の闘争本能をたくみに利用したのだ。人生の目標がない仙人は、あっちにふらふらこっちにふらふら、これは目標を定めることがいかに大切かという、納得がいく研究成果である。
まいどのことながら話が横道にそれたが、人に見せるためのトイレ掃除、トイレだけに胡散臭い。